学校が始まって2ヶ月。


春がはじまる


学校の3月から4月の期間は、新年度を迎える準備があったり、いろいろと慌ただしく過ごします。3月の中学校の卒業式を終えて、高校の入学式にあの人たちがどんなふうに「花道」を通るのか、高校の入学式も楽しみでした。
春休みを挟むと、中高のそれぞれの在校生たちは、ひとつ学年の上がった表情や雰囲気に。休み中には実行委員や係の人たちによって入学式の準備が着々と進められ、翌日が中学校の入学式となる日が、新年度の始業の日。


始業の会

春休みが明けての始業の会。3年生だった人たちがいなくなって、新しい3年生だったり2年生の人たちが生まれて、毎年の今日はもうすぐ入学してくる1年生の人たちを待つ日。だから、いつもよりちょっと少ない。

3月の終業の日にみんなは「自己評価表」を手にしたわけだけれど、どうだったんだろう。書くにあたっては、苦しんだり悩んだりした人もいただろうけれど、

 「評価表を書くのが、楽しいんだよ」

と言っている人もいるみたい。振り返ってやってきたことが言葉になっていくことが、楽しいらしい。

 「言葉になっていく」

ということと、自分がつくられていくということは、同じことかもね。


春休みを終えて、みんな新しい1年間が始まる。これまでとはまた別の時間になっていくはず。これまでを振り返ってみて、どんな1年間にしていくのか、いろいろ考えを膨らませている人もいると思う。「変わろう」とすることは、新しい自分をつくる第一歩。そういうのを繰り返しながら、みんなは大人になっていく。

こちらから「変わった方がいいんじゃない?」と変化をうながすこともあります。「変える必要ない」「いまのままでいい」と思っている人は、ほんとうにそう? と自分で問い直してみてほしい。

ていねいに自分を見つめると、自分を取り囲んでいる「壁」がみつかる。壁の中にいるとそれなりに居心地は悪くないけど、やがてその世界にいつづけることに悩んだり、苦しんだり。しかし、壁の外の世界がどんなものなのかはわからないから、それを壊すまでにもいかない。
でも、壁で囲まれている「せまさ」から、圧迫感や行き詰まり感を少しでも感じるのであれば、壁の外とつながる出口を探してみるといい。



始業の会ではそんな話をしました。

全校集会で前に立つと、いろいろな人と「目」に出会います。自分が考えた言葉を発して、ちゃんと受け取っているよと目で合図してくれたり、うんうんと頷いてくれたりする人がよく見える。
ダメな話をすれば「ダメだ」という反応も起こるし、そうでなければ凪ぐような空間が生まれる。自分が伝えたいことがあって、それを伝えるときには、けっこう緊張します。自分の立ち位置だとか姿を表現しないといけないから。

昔、「校長の仕事はなに?」に対して「生徒に向かって何を話すか、だ」というやりとりがあったことを、校長をやった人から聞いたことがある。なるほどそうかと、いい話だと思った(これはずいぶん前の話)。誰に向かって話をするかで、軸が自分の中で決まります。

「誰々がこういうことを言っていた」「なるほどそうか」は、これまでの人生の中で、いろいろとたまってきています。「伝えたい」は、そういう自分自身の経験や体験が、誰かがなんだか知らない間につくった言葉として表れていることが多い。直接そうだと書かれていることもあれば、自分にとってはこういうことだとその文章の読み方に自分のスタイルが出るのかな。その表現が、どういう姿として自分のもつ鏡に映ったのかを考えてみると、横たわっていたものたちにつながりを発見できたりするのです。


新入生を迎える

中学の新入生は68人。久しぶりの3クラス。入学式の日に、朝のクラスに訪れました。これから始まるこの人たちの6年間がどういうふうにつくられていくか、自分がどう関わっていくか、想像する初めての出会いです。
新しく自由の森にやってくる中1の人たちには、こういう話をしました。




みんな、入学おめでとう。

この学校を選んでくれて、ありがとう。


自分が小学生のときには、まだ自由の森学園はできていなかったから、私自身は「中学校を選ぶ」ことがなかった。公立の中学校に行くことになったのだけれど、正直に言うとあまり楽しく感じたことは少ない。

この学校の中学生たちを見ていると、いろいろと楽しんでいるのが実はちょっとうらやましい。

ついこのまえに卒業していった人たちも、本当に楽しみきった人たちがたくさんいたし、3年間でずいぶん変化をしていったりもした。

人に対する信頼を回復したり、自分で自分のことをしばってしまっていた人が、自分自身でそれをほどいて、心が解放されていったり。

そんな人たちを、ほんとうに気持ちよく感じていました。


この入学式をつくっている在校生の人たちも、自由の森の空間をつくっている。
今日からその場にみんなが新しい仲間として加わる。

自由の森は、よく「みんなでつくる」と言い方をする。「授業をつくる」とか「行事をつくる」とか、「学校をつくる」とか。学ぶための材料はあちこちにあります。大切なのは、人と人とが関わることを通して「学ぶこと」を楽しむこと。そういうもののくり返しによって、「自分をつくる」行為が始まっていきます。

これはほぼ毎年言っていること。失敗するのがいやだなと思ったり、失敗して怒られちゃうことが理由で「何かをはじめる」という気持ちがしぼんでしまっている人がいるとしたら、失敗を恐れず「何かをはじめる」をしてほしい。すごく真剣に悩んで、やっぱりこれがしたいというときに起こってしまった失敗は、私のせいにしたり、一緒に怒られたりしよう。


この学校をつくった遠藤豊という人は、30年前の第1回の入学式で、「学ぶ」ということの中身について、こんなふうにしゃべっています。

学ぶということは、決してできあいの知識をたくさん貯め込むことではありません。
そうではなくて、自分自身を絶えず乗り越えながら、自分自身を絶えず打ち壊しながら、 自分の中に新しい世界を作っていくこと。新しい考えを生みだし、新しい考えをつくり出していくこと、そのことが学ぶということの中身です。

さっき言った「自分をつくる」ということは、「自分の中に絶えず新しい世界を生み出す」ことになる。その意味で、たくさんのことを経験して、学んでいってほしいと思っています。

いろいろ手伝います。
ようこそ自由の森へ。入学、おめでとう。

おわり。



遠藤豊の言った「自分自身を絶えず打ち壊しながら」は、自分にとっては「自分を取り囲んでいる「壁」」とどう向き合うかということ。その壁は自分がつくり出しているものだから、自分で何とかしなきゃならない。囲われた狭い世界に身を置いてそれなりの居心地のよさを味わうのもよいけれど、それにもの足らなさを感じるようにもなる。しかし、壁を破壊するにはそれなりの体力だとか勇気や覚悟が必要で、なかなか実行するのはむずかしい。壁の外に出るための「出口」を探したり、抜け穴を掘ったりすることの方が、壁を破壊するよりは自分には合っているかなぁ。

できることを少しずつ。

自分を振り返って思うこと。「人(自分)が育つ」は、そりゃ、時間がかかるわ。

なかの。





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